六義園での幻影
- 麻美 四条
- 2015年8月24日
- 読了時間: 27分

世間的には「嬉しいゴールデン・ウイーク」がやってきたのであります。
だからといって、サプライズ的な何かをしなければならないとか、急遽、慣れないお仕着せのレジャーとやらに決死の思いで出かけなければいけないなどと強迫観念にとらわれることもなく、怠惰だけがとりえの普段通りの暮らしに小さな満足を覚える毎日としたいのであります。
よって暇があればゴロゴロし、初夏とはいえ、年々暑くなる外気と陽射しに外出する気など毛ほども起こるわけもなく、ただ何も無いままに過ごすことの素晴らしさを満喫したいと願ってやまないのです。
ところが、ウチの相方さんはというと、いわゆる「手作りのお弁当を持っての遠足」的お出かけが大好きなお方で、遊園地詣でやイベント事が大好きときてるので始末が悪いのです。
特に興味があるわけでも無いのにスポーツの観戦のチケットを貰えば「楽しそうだ」とばかりにはしゃぎまくり、今回も野球の観戦チケットを新聞販売店のオジさんから貰うと、目を輝かせて私を見つめ「お弁当持参で冷たいビールをスタンドで飲むんだから行こうね」と怪しく微笑むのでありました。
もらったチケットの試合期日を見てみると、ゴールデン・ウィーク初日の四月二十九日。
イヤな予感が的中し、頭がクラクラしそうになるのを必死で抑え「弁当っていうのは作れということなの?」と問いただすと「当然じゃん!」というありがたいお言葉。
仕方なく、お弁当の中身をどうするのかアレコレ思案することとなり、定番の揚げ物がキライだという唐変木へ愛情たっぷりの呪いの言葉を吐きつつ準備をする羽目になりました。
野球観戦の前日、夕餉の後片付けを終わらせると、一息つく間もなく弁当用のお米を研ぎ、惣菜の準備に取り掛かり、お煮染めを作り、ブロッコリーを茹でてバターでソテーし、お決まりのソーセージを塩胡椒で炒め、塩鮭を焼き、マヨネーズ系のマカロニ・サラダを準備し、いくら揚げ物がキライだといっても一個ぐらいは無理にでも口に押し込んでやろうと唐揚げも準備し、おにぎりを結んでパックに詰め終わると、もう完全に朝になっていました。
試合開始が夕刻からというのに招待チケットが外野自由席だということで席を確保するために午前中からアタフタと電車に乗り東京ドームへ。
着いてみると、座席券を求めて幾重にも折れ曲がり、どこが最後尾なのかすらわからないほどの長蛇の列。ハンドマイクを持った警備員が「これから並ばれても立ち見席になりまーす」というアナウンスに唖然とするやらただただ呆れるやら。
いくらゴールデン・ウィークとはいえ夕刻からのゲームに朝から並ぶ一万を超えるであろう人の列にゲンナリ。天気は快晴で朝から気温も急上昇。
「日陰すら無い炎天下で、よくもまぁ行儀よく何時間も並んでじっと待てるもんだわ」と驚いて見ていると
本来、野球というものにまったく興味がなく、おそらくはルールさえ知らないであろう相方さんは、凄まじい長蛇の列を見て、もう野球観戦なんかどうでも良いというお顔。
「ねぇ、ねぇ、どこかへ行って弁当を食べる場所を探そうよ」と私にジャレつく始末。
「野球観戦に来たんじゃねーのかよ!弁当を食べる場所・・そっちかい」と冷たい眼差しを向けるけど、可哀想になって東京ドームの周りの遊歩道を歩くことに。
そこは日陰らしきものもベンチも無く「こりゃあ、家に帰って弁当を食べようか」と思い始めました。
ふと遊歩道横に目をやると緑生い茂る公園らしきものがあるではありませんか。野球観戦のことばかり考えていたので失念していましたが、そこは水戸徳川家ゆかりの「小石川後楽園」でした。
「ドーム球場から出て、緑いっぱいの所でお弁当にしましょう」というと、相方さんも納得のご様子です。
そそくさと球場を後にして、お隣の小石川後楽園へと向かいます。
私は野球が嫌いというわけではありませんが、球場にまで出かけていって応援するというほどの熱烈なファンでもなく、気になる試合ならテレビでじゅう分というくらいの人間です。応援するチームのユニフォームを着て、まるでお祭り騒ぎのように応援で日々のストレスを発散できる人たちとは馴染めないものがあるのです。しかし、彼らを見ているとすごく羨ましく思える時もあるのですけどね。
そんな話はさておき、野球観戦と庭園散策とを比べると、箱庭的人工物とはいえ、それなりに緑も多い回遊式庭園の方が情緒的にプラスということから「弁当持参の都心ハイク」へとお出かけの目的を速攻変更し、瓢箪から駒、まことに有意義な一日になりそうだと目を細めたのであります。
後楽園の入り口で三つ折りのリーフレットをもらい、回遊式庭園の順路に従ってはいるけれど、頭の中は「落ち着けて、涼やかな場所でお弁当を食べれる場所」を探すことに頭をフル回転させ、思い当たったのが白糸の滝の裏手、円月橋近くの「団体客用休憩所」。ここは「団体客用」という案内表示があるためにスルーしてしまう人が多く、かなりの確率でガラガラに空いているのです。多人数がゆっくりくつろげる広さのあずまやがあって利用制限などは一切なし。また周りの木々の間を抜ける風が涼しくて、少々気温が高くても快適なひと時が過ごせます。
さてさてお待ちかね、前日の夜から徹夜で作ったお弁当にありつくお時間。プラ製の折詰四個にギッシリと詰めた自慢のお弁当を広げると、さすがの相方さんも満面のニコニコ顏で「食べていい?」と聞いてきます。イタズラ心から、つい飼い犬にするように「待て!」の号令をかけたくなりましたが、相方さんはすでに割り箸を持つ手ももどかしく戦闘準備完了の眼差しでこちらを見ております。そうこられると笑顔で「いいですよ」としか言えず、美味しそうにパクつく顔を見ながら、なぜかホッと一息つける時間が訪れました。
良い天気に恵まれすぎて気温はぐんぐん上昇。たぶん、もう30度近くあるはずなのですが、あずまやの作り出す日陰と庭園の木々の間を抜ける涼やかな風のおかげで、日中にもかかわらず、かなり過ごしやすく爽やかに感じられます。
そんな後楽園の木々を渡る風を顔に受けながらふと思い出したことがあります。
福岡の南、太宰府の宝満山から三郡山を経て若杉山に至る三郡山地。そのもっとも東に位置する若杉山の八合目に荒田(あらた)という小さな集落があり、篠栗霊場新四国八十八カ所めぐりをするお遍路さんのためのお遍路宿が数軒あります。
ここは深い杉林に囲まれているために山深い高地にいるような雰囲気があるため、ちょっとした高原気分も味わえ、渓流から引いた冷たい山水のプールまであるのです。そのため昔は小学校の夏休み特別野外活動などにも利用されていたこともあります。
お遍路さん以外にはあまり知られていないこの場所は、福岡市内から車で三十分程度、ちょっと都会の喧騒から逃げ出すのにはもってこいの位置にあり、宿代も安く、宿を利用していればプールも自由に使え、お遍路宿ならではの家庭的で素朴なもてなしが好きで、ちょくちょく避暑に数日訪れていました。
ある日のこと。散策から戻ってくつろいでいると「最近、日中、ここも暑くなったでしょう」と宿の女将さんが部屋に入ってきました。
「やはり温暖化のせいでしょうか」と問い返すと「いえ、近くの杉林がかなり伐採されてましてね、ここに吹く風の通り道に木が少なくなったからなんですよ」というような意外な答えが返ってきました。
福岡市内に比べれば、いくら低山とはいえここは標高差が五百メートルほどあり、つたない気象学の知識しかない私でも平地の福岡市内とは三〜五度くらいの気温差があるから涼しいぐらいにしか考えてなかったから驚いたのです。
これまでは森や林に入っても、それは一日じゅう日差しがさえぎられているからだろうぐらいにしか思っていなかったのですが、よく考えてみると、木々は、その枝の先、一枚一枚の葉先にまで広く深く伸ばした根っこから水を送り続けているわけだから、その幹は冷えているものだろうと思い当たりました。
そんな木々が重なり合う森や林を風が抜けると、当然、風は冷やされ冷たくなるのでしょう。
そういえば、前にこの宿を訪れた時は、真夏だというのに陽が落ちると寒くて、あい蒲団まで出してもらい、くるまって寝たこともあったのです。
いくら広大な敷地の後楽園といえども、江戸の昔とは違い視線の先には東京ドームやオフィスビルが立ち並ぶ大都会のど真ん中です。まさか、そよと吹く風のひと撫でで、遠い昔の夏の思い出が彷彿とするとは思いませんでした。
そんな思いに浸りながら、楽しそうにお弁当と格闘する相方さんを見てると自然に顔がほころんでしまいました。
「小石川後楽園のさぁ、案内リーフレットを見ていたら都立文化財庭園って九カ所もあるんだよ。いくつか行ってみようかな」と相方さんに許しを得るように言うと、ニンマリ笑って「今日みたいにお弁当持参で行こうね」とのご指示。
「あははぁ、作りゃいいんだろ、作れば!」と睨みつけてあげました。
そこで、気合を入れ直して、せっせとお弁当を作り、庭園めぐりを実行することになりました。
五月三日に駒込の「六義園」から汐留の「浜離宮恩賜庭園」へ。
五月十日は清澄の「清澄庭園」から「旧芝離宮恩賜庭園」、そして十四日には国分寺の「殿ヶ谷戸庭園」と一気めぐり。
どの日も前日のお弁当作りと暑さで少しボンヤリとしてはいましたが、とりあえず行きたいと思っていた庭園はすべて訪れることができました。
「カメラを持っていかなくていいのかよ」と毎回相方さんに言われたにもかかわらず、カメラを持っていくことが億劫に思え、弁当作りの疲れも手伝って「どうせゴールデンウイークで人も多いだろうし、持っていってもこれという写真は撮れないよ」と弁解がましく相方さんに言い返す始末。
実際、写真を撮ることが生業になってからというもの「カメラを持たないでお出かけをする」ことが素晴らしいことのように思えるようになり、たまには行楽地などでは「写真を撮る人」にならないようにしようとひそかに決めていたのです。
今回訪れた庭園は、山荘風別荘庭園の「殿ヶ谷戸庭園」を除き、ほとんどすべて回遊式庭園で、ある意味武家流の贅を尽くした造りものばかりでした。
私がカメラを持ってこない代わりとでも思ったのか、相方さんがコンパクトカメラを持ってきていて、ふと気づくとカメラを構えています。
「ねえ、ねえ、ねえ、アングル・・これでいい?」
「自分が良いと思うアングルでさ、好きなように撮ればいいんじゃない」と面倒くさげに言うと
「ええん、ちょっと見てくれてもいいじゃん」と半泣き顔。
これじゃあ、自分でカメラを持ってきてるのとちっとも変わらないじゃないかと思いながらも
「はい、ここに立って。カメラを目線より高めに構えて。手前の松の枝も入れる・・」と真面目に指示をしている自分がいて、
写真家だとかカメラマンとか呼ばれる日常から逃げ出して「カメラ・・はははっ、難しいことなんかわかんなーい」を決め込もうとしたもくろみが脆くも崩れてガックリ。
しかし、木陰でお弁当でもひろげれば、また行楽気分に戻れると気をとりなおしたのです。
でもカメラを持っていかなかったことが後にたいへん悔やまれることになった日があるのです。
「小石川後楽園」で、庭園めぐりをしようと言ってから最初に訪れることになったのが、かの柳沢吉保が7年の歳月をかけて造営した「六義園」です。
お天気も良く、おかげで午前中から気温もぐんぐん上がり、都営三田線の「千石駅」を出て「六義園」に向かうちょっとの距離にも日陰を選ぶありさま。この日もお弁当造りであまり寝てません。
ボンヤリ頭で「六義園」に入ると、お庭の様子がどことなくせせこましくゴチャゴチャしているように感じました。
「いくら徳川綱吉公のお気に入りだとはいえ、水戸徳川家の後楽園とは造りが小さいなぁ」という印象です。
「六義園」は和歌に造詣が深かった柳沢吉保が、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す「風、賦、比、興、雅、頌」を庭園造りに反映したとされています。
順路通りに大泉水を右に見て滝見茶屋方向に進んで行くと、いかにも回遊式庭園という趣をそこここに感じます。しかし、吹上茶屋を超えてつつじ茶屋に至るころには、様相が一変し深山に分け入った感じがしてきました。
そして山陰橋にさしかかるころには、左手、樹林と共に熊笹が一面に広がります。
その熊笹が、昔、福岡市の西南部、雷山から井原山を縦走した時のことを思い出させました。
雷山山頂を後にすると、そこにはなだらかな稜線に広がる熊笹の海がありました。
そう・・晴れ渡った空に包まれたような不思議な感覚、そうフワフワとした感覚で歩き続けたように思えます。
ほんの数分間でしょうか。目の前にその縦走路を実際に見ているような感覚でした。
でもなぜ、そんなことを白昼夢のように思い出したのか不思議でなりません。
山陰橋を渡って「六義園」でもっとも高い築山「藤代峠」への分かれ道でのことです。
当時は、休みともなると、かなりな頻度で九州島内の彼方此方の山に出かけていて、そんなに特徴がある山でも無い雷山井原縦走など取り立てて、そんなに印象に残っている山行でもありませんでした。
実際、この「六義園」にきて熊笹を見るまでは完全に忘れていた小さな出来事にしか過ぎませんでした。
こうやって、あの日のことを思い出そうと努力しても、やっと「縦走路から玄界灘が望めたようだった」という記憶が蘇るだけで雷山の登りがどんな風だったとか井原山の頂上での記憶さえ全く無いのです。
「ねぇ、どっちに行くの」という相方さんの声で我に返り、少し汗ばんだ首筋を拭いながら「なんかさぁ、白昼夢みたいなもの見たんだよ」とボソっと声に出したのですが、慌てて「そこ右に橋があるじゃん、橋の方に曲がって藤代峠とかいう方に行くからさぁ」と少し元気そうな声で返事をしました。
昨日、寝てないのと、この日差し、そして真夏並みの暑さでボンヤリしてるから、目の前の情景さえ、幻覚とまではいかないまでも半覚醒状態になって夢をみてるような感じに映ります。
小さな木橋「山陰橋」を渡ると、そこは「蛛道(ささがにのみち)」と名付けられた細い道に入ります。昔は蜘蛛のことを「ささがに」と呼んだそうで、蜘蛛の糸のように細い小径という意味で名付けられたのだとか。
そのありようは、まるでどこかの山道といった風で、特に千メートルクラスくらいの山にかなり登ったことがある人なら、少なからず懐かしさを感じる風景かもしれません。
ここ「六義園」が古今和歌集に縁が深い「和歌の浦」(現在の和歌山)の風景を取り入れたのならば、熊野の山道を模したのだろうかなどとブツクサ考えながら歩いていくと、ほどなく藤代峠という眺めの良い築山への道が右手に見えてきます。
中の島へ続く小径を行くと、ほどなく藤代峠への登りが見えてきました。
途中途中に小さな岩が露出した一本道。それがまっすぐ青空へと続いています。
道の左手、大泉水を望む側は草付きの斜面になっていて、道の右手はこんもりと広葉樹の雑木林になっているようです。
峠の頂上付近には数人の観光客とおぼしき人影があり、峠道にもザックを背負った人が数人。
どう見ても、日本の山岳路でよくある「峠の山道」なのです。
「ほほう、柳沢吉保さんもなかなか粋な造りをなさったのね」と、その情景を見上げながら「ここは写真に撮っておくべきだった」と思いました。
藤代峠をかなりの時間、ボンヤリ見上げていたのでしょう。相方さんから「どうするの、上に登るの」というお言葉が飛んできました。
「人も多いし、このまま渡月橋まで降りて中の島の方に行きましょう」と藤代峠の登り口を背に歩き始めました。
というのも、今日は「六義園」から徳川将軍家と関わりが深い「浜離宮恩賜庭園」へ行く予定だったので、少し先を急ぎたいという気持ちが働いていたのかもしれません。
渡月橋を渡り、中の島や出汐湊を右に見てしだれ桜のある内庭大門の方に向かいます。桜の季節をとうに過ぎているために緑濃い桜を眺めながら「この次は見てさしあげましょうとも」と心の中でつぶやき「六義園」を後にしました。
地下鉄を乗り継ぎ近代的な街に変貌をとげつつある汐留の駅についたのは午後三時ごろ。駅を出て「浜離宮」へ向かいます。
あまりにも街の様子が変わってしまっていて「浜離宮恩賜庭園」の入り口への道を探すのにオタオタ。
それでも何とか大手門橋に辿り着き「浜離宮」の中に。
「江戸の潮風そよぐ浜御殿」というキャッチフレーズは何処へやら。風はそよとも吹かず、ジリジリと照りつける日差しを受けて、広い庭園内に足を踏み入れると、園内の道に大勢の観光客が巻き上げる砂埃が舞っていて庭園を愛でる気持ちも下がり、テンションは最悪の状態になってしまいました。
それでも庭園内を一周。その広さに圧倒されながら、庭園の景色よりも頭に美しく浮かんだのは「アイスクリームが食べたい」という言葉でした。
「ねぇ、アイスクリーム・・それもソフト・クリームが食べたいのだ」と相方さんに懇願すると、ちょうど都合良く水上バスの発着場近くにソフトクリームの販売スタンドが。「仕方がないなぁ」という顔をしながらも、本人もまんざらじゃないという目をして売り場へ行ってくれました。
ところが「普通のバニラでも三百円もするよ。高いからここを出てコンビニでね」と帰ってきました。
「おめえよ、ここは観光地区だから何でも高いのは当たりまえだろうが」と悪態をつくと「はい、おあずけ」と涼しい顔です。
アイスクリームの誘惑には勝てず「とにかく、ここを出よう」ということになり、汐留駅には向かわず築地市場方向へ歩き、無事コンビニに辿り着き帰宅の途についたのです。
その後、「清澄庭園」と「旧芝離宮恩賜庭園」を訪れ、国分寺の「殿ヶ谷戸庭園」に行った頃にはお弁当作りにもいささか飽きて、庭園めぐりは小休止となりました。
ゴールデン・ウイークも終わり、いよいよ夏到来と思いきや、梅雨の時期になると気温が下がりウソのように肌寒い日が続きました。自然の風の涼しさとは良いものです。
元々、出たきりトンボ型なのですが、ここ数年はすっかりウチにこもることが増えてしまって、日中も過ごしやすい日が続くと、読みかけになっていた本や書きかけのエッセイに手を入れ、自分なりに、かなりの充足感を味わっていました。
そんなある日、ふと庭園めぐりをした日のことを思い返してみることにしたのです。
「カメラは持っていかない」とうそぶいてはいたものの「六義園」、「浜離宮」を訪れたあとは、ちゃっかりサブカメラとして使っているコンパクトデジカメをバッグの中に忍ばせるようになり、人出が少なく落ち着いた感じの「殿ヶ谷戸庭園」では、まあまあの写真を撮ることができました。
しかし、どうしても気になってしょうがないのが「六義園」の藤代峠を見上げた時の光景なのです。
昔、大学で写真の講義を受けている時、教授から「カメラは持っていなくても自分の瞼の中に情景を焼き付けるくらいの気迫で写真を撮れ」と言われたことがあって、それ以来「カメラがない時には心のカメラで写真を撮る」ようにしてきたつもりです。
ですから「六義園」の藤代峠を見上げる絵も心の中にしっかりと記憶しているつもりでした。でも、何か違うのです。
それ以来、このことが頭を離れず、もう一度「六義園」を訪れてみようという気持ちになりました。
といっても家事はもちろんのこと、雑多な仕事があったり、お付き合いで出かけたりで、なかなか時間がとれません。
相方さんに「もういちど六義園に行くからね。どうしても撮っておきたい場所があるから、平日の午前中に行くよ」と声をかけました。
もちろん、相方さんも一緒にお出かけするつもりです。
「なんで前に行ったときに写真を撮らなかったのさ」とは言いつつも「お弁当持って行くよね」とにんまり。
「お弁当は無しです」ときっぱり私。
「ご飯はどうするのさ」という問いに「新宿に出て餃子か何かを食べてビールというのはどう」と答えると「ふんふん」と尻尾を振ってくれました。
とは言ったものの、やはり時間がとれず「六義園」に行くことが出来たのは7月も10日を過ぎて。
夏本番、暑さテンコ盛り。連日の酷暑に頭までおかしくなりそうです。
この日も朝から温度計の数字はグングン上がり、暑さに弱い私は「お出かけ危険」注意報が頭の中で鳴り響いていました。
「ええい、しゃらくせー。行かにゃならんと決めたもんは絶対に行くのだ」と気合を入れて出かけたのです。
しかし、家を出た途端に襲い来る熱気にタジタジし、家からすぐの地下鉄の駅に着く頃には額をつたう汗と不快感にウギュッと悲鳴にならない声を発していました。
相方さんはというと暑さに強いことを売りにしているだけあって平気なお顔。余裕の表情を見せながら「大丈夫」と気を遣っているかのような声をかけてくれますが、よく見るとイヤミなニンマリ顏をしてらっしゃいます。
とりあえず電車を乗り継ぎ「千石駅」に。
今回は場所も行き方もわかっているので駅を出ると日陰を選びながら早足で歩きます。
その様子を見ていた相方さんが「それで早足のつもりなの。足が短いから普通に歩く俺と変わんねえじゃん」とからかい出しました。その時は少しでも早く「六義園」に着きたいだけでしたから「おだまり、気持ちの問題なの」と怒りの炎をあげました。
「六義園」の入り口を入ると、順路とは逆に真っ直ぐ渡月橋へとむかい、気になる藤代峠へと急ぎます。
山陰橋へ至る道を進めば左手に藤代峠への登りがあるのです。ところが、この山陰橋に至る道にまったく覚えがありません。
「この道、こんなに幅があったっけ」と相方さんに聞いても覚えてなさそうなお顔です。
あの日はあまり寝てなくてボンヤリしていたからだろうと思い、気を取り直して藤代峠への分岐へ急ぎました。
藤代峠は「峠」とはいっても庭園内の築山で、高さはせいぜい三十五メートルといったところ。「六義園」の大泉水や中の島を一望することができ、頂上は「富士見山」と呼ばれて造園当初は富士山もきれいに遠望できたようです。
さて「藤代峠」なる築山へ登る道との分岐に着いたのですが、とにかくキョトンとしてしまうくらい前に来た時に記憶している風景とまったく違うのです。まるでキツネにつままれたような気分になって藤代峠の頂上に至る道を見上げました。
そこには、石段が曲がりながら頂上へと続く、趣を極めた庭園の築山にふさわしい道がありました。驚いたことに、あの日見た「まっすぐ峠の頂上へと続く青空の奥へと伸びる道」ではないのです。
今回は、日本のどこかしらで見かける峠道に酷似した「藤代峠の登り道」を撮りたくて出かけてきたのですから慌てました。
そういえば山陰橋に至るこの道も記憶になく、きっと他に別な道があるのだろうと思い、とりあえず藤代峠へ登ってみることにしたのです。大きな山容を持つ山ならともかく、ここは庭園内の小さな築山ですし、頂上といっても数分で登れるような場所なのですから登ってしまえば容易にわかると思いました。
富士山を遠望することはできませんが、なるほど大泉水を囲む回遊式庭園が一望できる藤代峠の頂上に到着しました。
歳のせいなのか運動不足が祟ってなのか、わずかな登りなのに息があがり、着いた時にはゼーゼー言う始末です。
藤代峠からの景色はともかく、五月三日に来た時に見たあの道を探すことに。といっても、頂上部分はそんなに広さがある場所でもなく、ぐるりと見回すと、今登って来た階段ともう一本、ゆるやかなカーブを描くように大泉水のほとりへ下る道があるだけです。しょうがないので、大泉水へ下る道を降りることにしたのですが、これまた頭の中にある道とは全く違うものでした。
少し気持ちが混乱し、不思議な焦りが頭の中を支配し始めます。大泉水の周りの優美な景観には目もくれず、もう一度、山陰橋にいたる小道の方へむかい、あの分岐に行ってみることに。
黙って後ろからついてきてくれてた相方さんが「また、同じところに戻るの」と呆れたような声を掛けてきます。
「時間を割いて写真を撮りに来たのに」という気持ちから、ちょっとばかりイラッとして「六義園に来るというても、藤代峠への登り道を撮りたくてワザワザ来たのじゃ。何度でも行くだわさ」と睨みつけました。
「そんなに怒らなくてもいいじゃん。ただ、どうするのかなって思って聞いただけなんだから」と口を尖らせる相方さんを尻目に、とりあえずもう一度、藤代峠への分岐へ戻りました。
そこには、やはり石段の連なる藤代峠への登りがあるだけで、あの日私が見た登りとは違っています。
あれは「またしても、デジャビューなの」と顔をしかめながら、今度は山陰橋へ一気に通り抜けてみることにしました。
山陰橋というのは、山里の小川に掛かかっているような趣を持った小さな丸太を組んだ木橋で、橋の上には踏み固められた土が載り「六義」の名前にふさわしい風情を醸し出しています。
山陰橋の対岸には五月三日に見た通り、樹林の下を覆うように配された熊笹がありました。
「あの日は、ここで白昼夢みたいなものを見たんだ」と思い返しながら、橋を渡らずに蛛道を右に進むことにします。
すると右に折れる小径があり、蛛道という名にふさわしく細くまっすぐな小道が大泉水方向に伸びているようです。
見るからに山里の小径風で、山に行くことに慣れ親しんでいる人なら「ふーん、なるほど」と思うかもしれません。
「もしかすると、あの日もこの道を歩いたのでは」と思えてきました。
それで相方さんに「この前、ここにきた時にさぁ、この細い道を通ったよねぇ」と聞いてみました。
「ここは歩かなかったじゃん、さっきの橋のところをまっすぐ進んで池の方に出たよ」と怪訝そうです。
しかし、この小径には何となく覚えがあるような気がしてなりません。初めての場所に立って、そんな気持ちになるということは、六義園に何か不思議な力でも働くパワースポットのようなものがあるのかと苦笑いをしてしまいました。
案内パンフレットによれば、この蛛道は藤代峠には繋がっていません。ということは、この道を入って藤代峠への登りを見たということは絶対にないことになります。
それでも、この「蛛道」をみていると、藤代峠の幻影を見たことがなぜか納得できるような気持ちになってきたのです。それはロッククライミングをやっていた頃のこと、ある友人からザイルを蜘蛛の糸に例えたクライマーの話しを聞いたことがあったからです。
「どうするの、その道を進むの」と相方さんが言うので「いいえ、山陰橋まで引き返して、つつじ茶屋の方へ行って帰ろうよ。そしたらお昼を食べに新宿へ出ようね」とやや優しい顔で答えました。
実際のところは、五月三日に訪れた時に見た景色が幻だったことへの戸惑いと、そして折からの酷暑のせいで頭が溶けそうなくらい不快だったことが重なって「もういいや」という気分になっていたからなのです。
六義園を出て地下鉄に乗っても、五月三日に見た藤代峠の登りのことが頭を離れません。それでも何とかしゃにむに幻影を振り払い、餃子をやめて新宿のファミレスで食事をし、相方さんご期待のビールは無しで帰宅しました。
家に帰り、パソコンの前に座って六義園で撮影した写真を整理している時のことです。
ディテールまではっきりと覚えていて、あまりにもリアルな藤代峠の幻影がおぼろげながら見えてきたような気がしました。
私の頭の中にある藤代峠の絵と同じ構図で写真を撮ったことがありました。
それは四十年以上も前の話で、島根県の伯耆大山の冬の事です。場所は弥山の下りで六合目の避難小屋のすぐそばでした。
伯耆大山は標高も二千メートルに満たない山容で、夏は中国地方や関西の登山者に人気の山です。
元は火山だった大山の海側の火口部分が崩壊したために、鋭く尖ったような尾根筋が残り独特な山容が登山者を惹き寄せます。
しかし、冬は裏日本に位置する山というだけあって積雪量が多く、伯耆富士の別称があるくらい美しい姿の山です。
冬は雪庇が出る馬の背と呼ばれる険し尾根筋があったり膝上まで達する雪がある割には山が浅く、初歩の冬山登山の経験を積ませることができるからとアルプスから遠い九州の岳人たちにも人気があります。
この大山の冬に私と同行していたのは二人。一人は高校の同級生で、当時、私の妹と交際していた A 君。それと筑後の女性で後立山連峰の白馬大池小屋でアルバイトをしていた K さんです。どちらも冬山初体験で、慣れないピッケル・ワークや登山靴にアイゼンを付けての歩行練習が楽しそうでした。
特に A 君とは、彼のお姉さんも一緒に福岡近郊の宝満山や三郡縦走はもちろんのこと、宮崎の大崩山、九重山系などに出かけた山仲間で、北アルプス初体験ということで白馬に連れて行ったこともありました。
この日の大山は軽く吹雪いていて視程は二十メートル程度。弥山の直登ルートならまず心配無いと登り始めました。お正月休みを利用して来ている登山者も多く、雪かきラッセルの必要もなく、地元の山岳会が所々に設置してくれている「ルートを示す赤い旗」を目指せばスムーズに登れます。大山の弥山登山道は、冬でもそう時間のかかるルートではないのですが、お二人の同行者さんたちは、初冬山の気分が盛り上がり過ぎてなかなか前に進みません。結果、頂上小屋で一泊することになりました。
大山の頂上小屋は夏期のみ有料ですが冬は無料で利用出来ます。といっても積雪のため煙突から入ることになるのです。
多くの真面目な山岳会は、北アルプスへ出かけた残りの留守部隊や新人さん等を引き連れて、雪洞を掘ったり冬用テントで一晩を過ごしますが、頂上小屋を利用するのは飲兵衛が多くて酒盛り大好き派ばかり。正月休み利用の登山でも、ご来光を拝むよりも翌朝はゆっくり寝ておこうという剛の者たちです。
つまり、私たちも酒盛りの輪の中で賑やかに過ごし、ご来光のことなどすっかり忘れてしまいました。
さて、その写真なのですが、翌日も吹雪が収まらず、大山の主峰「剣ヶ峰」へ向かう縦走路には雪庇が五メートルも張り出しているという情報もあり「馬の背」に初心者の A 君や K さんを連れて行くのは無理だと判断して、登りに利用した弥山ルートを下りました。
八合目を過ぎたあたりから吹雪も収まり、六合目の避難小屋まで下ると同行のお二人さんも下界が近くなってホッとした表情をしています。その余裕からか「上りは吹雪いとったけん写真が撮れんかったやろうが。だけん、ここらで一枚撮ろうや」と A 君が言い出しました。
私を先頭に A 君、ラストは K さんという順で下りていたので、そのまま写真に撮ろうとカメラを構えると
「違うったい。下りようとこじゃなくてくさ、登りようとこば撮らな、つまらんめーが」と A 君が笑っています。
ヤラセで撮ろうという A 君の提案は K さんのご賛同も得て、それらしい雰囲気作りから着手しました。
踏み固められた登山道を少し外れれば、雪の吹き溜まりがあって身体が軽く腰まで埋まってしまいます。そこに A 君を立たせ
K さんは十メートルほど上に登り返してもらいました。ラッセルで腰までの雪をかき分けながらの登りといった感じで撮ることにしました。
「そうか、あの時の写真の構図とそっくりなんだ」と気付いたのは明け方近く。
「藤代峠の怪」が一段落したと思えたので、山での思い出に浸りながら時間を過ごすことにしました。
大山登山のあと、A 君は他の山仲間たちと北アルプスなどに何度も出かけ、特に立山連峰の主峰「剣岳」には、その山容の荘厳さからか深い思い入れが出来たようでした。
それから数年後、福岡でも老舗の建設資材会社に勤めていた A 君は東京支店へ転勤となり、彼からの第一報は「東京はくさ、長野がむちゃくちゃ近かとぜ。お前が東京に来ることがあるなら一緒に北アに行っちゃーばい」というもので、茶目っ気のあるA 君らしい笑顔が電話の向こうに見えました。
私は福岡で、しかも宮仕えの身なので、なかなか東京に行く機会に恵まれません。そうこうしているうちに時間だけが流れ過ぎて、お互いに四十歳になってしまっていました。
そんなある日、家に一通のハガキが届きました。A 君が東京の自宅で脳溢血のため倒れ、そのまま病院で亡くなったという知らせでした。まさに不惑の歳の死でした。
藤代峠で見た幻影で、峠の頂上を目指すザックを背負った人が A 君に似ている気がするのです。
背景となった場所は、九州の山の縦走路での小ピークと考えればよくある風景です。
しかし「六義園」で出るかねぇ。確かに熊野古道のような趣が霊場のような空気を生み出していたのかもしれません。
冬ではなく九州の夏山らしい景色の中で、振り返りながら佇んでいたことにも思い当たることがありました。
東京暮らしが長くなるにつれ、九州の山が、そして博多が恋しくなっているようでした。
冗談だとはいえ「山男は山に命ば掛けるとぜ」と言うのが常で、小心者ながら肝の据わった風を装うのが好きな人でした。
それが山ではなく家で倒れたというのは格好が悪いと今でも思っているのかもしれません。
「そういえば、 アンタが東京に行ってからは一度も一緒に山に行けんかったね。友達のくせにアンタの供養ばちゃんとしてなかったけん寂しかったかもしれんね」と独り言。
「今度、時間を作って相方さんと二人で立山連峰の登山ベース「室堂」まで行きますよ。それまで待っとってください」とパソコンの前で涙を流していました。
故 安倍 淳一 君に捧げます。

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