Blue Train
- 麻美 四条
- 2013年9月11日
- 読了時間: 9分

東京に出て来て8年。
先日、ふと西武新宿線の車中で、徐々に、いやもうほとんど東京人になっている自分を感じてしまいました。
地元、福岡の交通アクセスについての知識など、覚えていたとしてもすでに過去の遺物と化しているでしょうし、
今流行のスイカなどの「 IC カード 」についてさえ、地元福岡のカードの愛称が何なのかすら知らないのです。
考えてみると、私を郷里の福岡と東京を結んでくれていたのがブルートレインでした。
あえて飛行機には乗らず、新幹線もこばみ、夜行寝台という独特な「のりもの」に固執した結果の答えです。
博多と東京を結んでいたブルートレインが無くなり「東京から郷里へ帰る方法を失ってしまった」というと大げさかもしれませんが、心情的には何となくそういう気持ちが多分どこかにあるのも事実です。
おかげさまで東京人になるしかなかったというのが郷里に戻らない理由の弁ともなっています。
そこで2009年3月14日に博多、東京間のブルートレインの最終便が走った時に書いた一連の文章をここに移しておこうと思います。
No.01
2009年3月14日
今日の午前10時前には、東京駅に上り「富士・はやぶさ」が入線してきます。今の時間なら名古屋を出て大府を通過したあたりかな。
そろそろ朝の車内販売が始まります。
昨日の夕刻、東京駅を出発した「青い列車」が夜のニュースで取り上げられていました。
「EF6653」に牽引されての出発です。
私がブルートレインを初めて見たのは、昭和33年くらいの事だったろうと思います。
それは蒸気機関車に牽引された博多発の「あさかぜ」でした。
その日は寒かったのでしょうか、夕暮れのホームで機関車は濡れたように鈍く黒々と光り、発車前の列車と機関車を真剣なまなざしで確認する青い業務服の運転士のゴッグルがやたら格好良く印象的でした。
迫力ある大きな動輪、白い蒸気をホームにたなびかせ、新しい寝台特急を牽引する機関車らしい堂々とした勇姿。
ヨーロッパ風の瀟洒な旧博多駅の特別待合室で乗車の時を待っていると、真新しい青い車体の旅客寝台列車の横で、洒落たクリームホワイトの制服に赤い腕章を付けた専務車掌が乗客への挨拶と誘導を行っています。
なんと車体の窓はすべて開きません。
「ねぇ、おじいちゃん。窓が開かないからお弁当買えない」と私。
乗車の時には車両のドアが自動で開閉するのにはびっくりしたものです。
しかも食堂車があって、白いテーブルクロスの上には銀の一輪ざし。
ワンピースに白いエプロン姿のウェイトレスさんの笑顔が眩しかったですね。何もかもが上質の高級感に満ちていました。
ここ数年、毎月、博多から東京に向かう時は、わざと九州と東京を結ぶ最後のブルートレイン「はやぶさ・富士」号を利用してきました。
B寝台にB寝個室ソロ、A寝台個室での旅を楽しませてもらいました。
あの食堂車はもうありません。ロビーカーもありません。
あの美しかった青い塗装は、あちこち剥落して無惨な姿のままでした。
あなたもすぐに解体されてしまうのかしら…寂しくなるね。
あさかぜ、はやぶさ、さくら…私が東京に旅する時に利用したブルトレたちです。
あと数時間でラストランが終わります。
あの日、小さな私と夢を乗せて走ってくれた事を忘れられません。
No.2
寂しいを越えてね
涙が出たよ
ブルートレインの車内の匂いまで
はっきり覚えてて…
あの車内は故郷と東京とを繋ぐ
カプセルだったよ
あれに乗ってる時間って
東京に出かける心構えがみたいなのが創られる場所でした
東京で暮らす今は…
故郷に帰る道を失ってしまったような
そんなブルーな気分になってしまいました
No.3
まだ蒸気の汽笛が心地よく耳に残ってます
夜行列車の警笛は哀愁を呼び起こします
深夜の踏切音が後ろに遠ざかると
ブラインドを少しだけ持ち上げて
暗がりと街の灯を何とはなしに見つめてしまいます
夜汽車の旅は独りが良いって誰か言ってましたね
でも私は寂しさと
うまく付き合えないまま
終着駅に着いてしまいました
No.4
旅って好きでした。
だからずっと寝台特急を見るとソワソワします。
何だか、すごく遠くの街に行ける気がして…
大都会東京への憧れ。
ブルートレインは
その街へ
私を運んでくれる夢の列車だったのです。
小学校5年生の時に観光で叔母と上京。
オリンピックの感動さめやらぬ東京の街を訪れました。
乗ってきたのは寝台特急「はやぶさ」
二等寝台(今のB寝台)の中段での旅でした。
そう、小さなガキにはピッタリお似合いの三段ベッドの真ん中です。
17時間の列車の旅は
この時も「東京」上陸のための “心の準備時間” をくれました。
横浜を過ぎ、品川駅が近付くあたりでしょうか
「おばちゃん、ここから博多弁ば使こうたらいかんとよ。
東京はくさ、標準語ば話さないかんちゃけんね!」
そう…
東京駅のホームに満面の笑みをたたえて降りたった私は
めいっぱい気持ちを切り替え、格好いい“東京のお子さま”に変身していたのです。
No.5
旅を想う時って
『旅情』という言葉の響きの中に “哀愁” みたいなものも含めていたりしますよね。
孤独な夜汽車の中では、車掌の車内放送が終わると、不思議な寂寥感に満たされます。
とりとめなく
いろんな事を思い出したり、考えたり…
真っ暗で、どこを通り過ぎているのかわからない車窓の景色を見つめて
国道らしき道を走るトラック、オレンジ色に路面を染める街灯の列、あっという間に過ぎる名も知らぬ小さな駅や踏切。
すべては闇の中を流れ去る走馬燈のよう…。
自分の心と向き合おうなんて気持ちが無かっただけに…眠れないまま、単調な音と列車の揺れに身をまかせ、なぜだか知らずに、ため息まで漏らしてしまうのです。
翌朝、列車を降りて歩き出すと忘れてしまう “あの時間” は、それから幾日も、いや何年も経ってからの方が鮮明に思い出すとは思いませんか?
妙にゆったりとして、なのに心が眠れない…
だから、夕暮れの街を走り去る青い列車を見かけると、そこに置き忘れてきた大切な物でもあるかのように、切符に書かれた狭い寝台に身を委ね、また旅に出たいと思ってしまいました。
No.6
少し前のことですけど
実は福岡から東京出張も日帰りになっていたのです。
福岡空港を早朝の1便で飛び立つためには、朝4時起きで空港に向かわなければなりません。
羽田を経て、東京駅に着くのは朝10時前後になります。
出張の前日、東京出張を口実に、早めに仕事を切り上げて博多駅に向かうと「はやぶさ」で東京に向かう選択肢が生まれたのです。翌朝10時には東京駅着でです。
しかもJR西日本の企画きっぷ「東京往復切符」のブルートレインB寝台往復を選べば、空路の特割よりも安い…確か往復運賃で36000円くらいでした。
平日は利用客も疎らなブルートレインでの旅は、まさに癒しでした。
向かえ合わせ二段ずつの四人が座るセミコンパートメント席を独り占めできるくらいガラガラに空いている車内。
往時のブルートレインでは考えられない風景がそこにはありました。
ひどい時には、ひと車両に私一人だけが乗っているだけという日もあったのですよ。
「こんなんじゃぁ無くなるなぁ…」と思ったのが3年前のことです。
だから…
廃止を聞いた時は「やっぱりその日がきたか」と思いました。
よく車内では「豪華な付加価値を持たせれば客を呼べるんじゃないか」という声が聞こえてましたけど、時代の流れなのでしょうね。
No.7
博多から東京。
夜行寝台で思ったことはたくさんありました。
人気も疎らな夜の駅を通る度に、そこに暮らす友だちや知人との思い出が頭をよぎります。
それは喧嘩みたいになって途絶えた人間関係だったり、不義理なことをしたものだったりと
けっして楽しいものばかりでは無いのですけどね。
でも、いつも胸を熱くしながら、その街に眼を向けてしまうのですよ。
そんな思いに浸っていると、発車の合図も無いままに列車は深夜のホームを離れて行くのです。
私の心を次に向かわせる合図は、動き出す列車の長く繋がった車両同士がたてる軋み音だけ…。
だから夜行列車が止まる駅って「心の駅」って思ったことがありました。
No.8
誰もが “夜行列車” という言葉の響きに哀愁を感じるというのには、それぞれに思う何かがそこにあるからなんでしょう。
夜の静寂を走る列車の単調な音が、忘れてた寂しさや辛さを思い出させてしまう “静かな” 車内。
どんな目的であろうと、それが “旅” であるが故に、尚いっそう心にしみるのでしょう。
また、そんな “旅” の情景に憧れを持つ方もいらっしゃるのでしょうね。
何度となくブルートレインに乗りました。
あまり乗った事がない方にとっては、羨ましく思われるのかもしれませんけど、その時々や折々で、楽しい時も寂しい時、悲しい時もありました。
そこには、乗客の誰それとなく共有できる “何か” があったのでしょうね。
人によっては、それってたぶん「哀愁なんでしょう」と言われるかもしれませんが、まさにそれこそが「旅」なんだと思うのですよ。
No.9
九州まで新幹線が伸びるまでは、鉄路で唯一乗り換え無しで東京へ向かえるのはブルートレインだけでした。
印象的な青い車体。
その誕生当時は “動く高級ホテル” と呼ばれたそうです。
廃止直前のブルートレインは、発車時から寝台仕様、食堂車廃止後も車内販売は朝まで無し。
そのサービスに“動く高級ホテル”と呼ばれた往時の面影はありません。
往時のブルートレインを思い出すと…
九州を出る時は座席仕様で発車、夜8時頃に寝台仕様とするために車内作業員が多数乗り込んできます。食堂車は日本食堂をはじめとして、ミカド食堂、後に帝国ホテルなどが担当し、25年前までは、トレンド雑誌に特集が組まれるほどの青い列車での旅に付加価値をもたらしていました。
時代の趨勢の中で、旅はその形を変え続けています。時にそれは “旅情” という言葉の意味すら過去形にしてしまうのかもしれません。
青い列車が走り去ってしまったように。
No.10
今現在、私はかなり重症の “寝台隠れ鉄” な旅人なのですけど(笑)
当時は「大好きな汽車ポッポ」くらいの認識しか持っていないガキでしたから、牽引していたのがC56だったかどうかは定かではないのです。
ただ、それへの興味もあったからでしょうけど、目を見張るくらい衝撃的だった記憶って、かなり鮮明に残っているものだと自分でも驚いている始末なのです。
駅構内のお茶売りのオジサンから買った「お茶」の暖かさ、その素焼きの容器の感触。また当時の旅の友として定番だった「茹で玉子」や赤い木綿の網入り「みかん」なども、今回、その特典付録として懐かしく思い出しました。
笑ってしまったのは、なぜ「駅弁」の記憶が無いのかだったのですけど、よーく考えてみると豪華な食堂車があったからなのでしょうね。
次に浮かんできたのは、食堂車で食べた夕飯のチキンライス、朝の豪華な和定食、生まれて初めて食べたシジミのお味噌汁は印象的でした。
それに車内販売のお姉さまの笑顔と紙箱入りのハイカラなサンドイッチ。
その時に付いてきた“おてふき”は、私の大切な宝物となりました。
私の『あさかぜ』号初体験の思い出…今だからなのでしょうね、他の “ブルートレイン” の旅の記憶と共に蘇ってきます。
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